外側のヨーガから内側のヨーガへ。 「努力してやるモード」から「努力が止んだ在るモード」へ。

By 2017-04-25 Blog No Comments

ティワリジはいつも、ヨーガは、自分自身がしっかりと実践している先生から学ぶべきである、とおっしゃいます。頭で分かっていても体感として経験で理解していなければ、相手を変容させることは出来ないからです。
本当に理解している人は、言葉と態度が一致する・・・ということも、ティワリジやスワミ・アヌバヴァナンダジと一緒にいることで学んだことです。そして、グルと呼ばれる師は、とても謙虚で真摯、どんな相手に対しても敬意を持って接します。

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GRACEで最も大切な概念であるCompassionは、それ自身を訓練することは出来ず、その構成要素を実践することで自然と内側から湧き上がるものである、と学びます。
1年前にこれを聞いた時、真っ先に、ヨーガの目指すものと同じだと思いました。
ヨーガでは外側のヨーガを実践します。それは、努力している間は内側のヨーガ(ダーラナ、ダィヤーナ、サマーディ、いわゆるラージャ・ヨーガ)にはなり得ないからです。自分が「している」間は、ダーラナ(集中)の段階ですらない。
かつ、外側のヨーガの段階でも、Effortlessness in effort (努力の中の努力のない状態)を探る練習をしていきます。
ティワリジは、ディヤーナ(瞑想)は練習出来ないと言います。出来るのは瞑想のテクニックの練習だけで、瞑想は気づいたらその状態になっていた、というものだからです。
ですので、ヨーガでは、「瞑想を実践する」という言葉はナンセンスで、「座る練習 Sitting practiceをする」と表現されます。

最近、自分が学び、実践で経験してきたことを伝える、ということに、迷いを感じていました。自分が知っていること・学んできたことを出来る限りお伝えして、さらに深いことを、ティワリジをはじめとした素晴らしい先生方から直接学んでいただきたい。そういう想いから、プラーナーヤーマを集中講座として2011年12月からお伝えし始めました。
それから5年と4か月。
その気持ちには変わりはないのですが、自分で時間をかけて積み重ねた経験なしに知識を得てしまうと、簡単に分かった「つもり」になってしまうという落とし穴があるということに、昨年頃からようやく気付き始めました。

早く分かることが必ずしも良いことではない。
迷わずに最短で前に進めることがその人にとって最善ではないこともある。

思えば、ティワリジは、出来の悪い生徒である私の遅々とした学びを、いつも温かく辛抱強く、ただ見守ってくださっていました。一度も否定されたことはなく、ただ、間違った方向に行きそうになったり、自分からアドバイスを求めたときだけ心からの言葉で短く大切なことを伝えてくださいました。
師の大きな手の中で、あっちに行ったりこっちに行ったり、ぶつかりながらグルグルしているイメージ。笑
でも、流れて向かっていく方向は、その手の中で静かに作られている感覚です。本当に有り難く、かけがえのない絆を感じます。

理論は実践を伴って初めて活きてきます。

今回GRACEを再びジョアン先生からお伝えいただきました。ジョアン先生の経験から出る言葉は、たとえ短い一言でも、その重みが違います。
開いた心から発せられている言葉なのか、そうでないのかは、体感するという実践をしている人であれば容易に感じられるものだと思います。
最初に、「何度も参加している方々に、繰り返し同じことを伝えるのは申し訳ないと思う。」とジョアン先生がおっしゃっていると聞きました。コースが終了した今、その先生の気持ちが少しだけ理解出来たように感じています。ジョアン先生は、ご自分の経験から、理論も大切だけれど、それ以上に大切なのは実践的なトレーニングだということを知っていらっしゃるから。
最後の言葉も、「このコースにはContemplative practiceが足りない。」でした。
静観的な実践。
ヨーガの実践で言えば、外側のヨーガから内側のヨーガへ自然と移行出来るような土台を作り上げること、になるのだろうと思います。

カウンシルでの話し合いや、食事の時の会話から、intellectual understandingではなく、practical understandingを得ることの難しさも感じました。実践的な理解は、言葉と態度を一致させてくれます。

Not knowingの実践も、今回のGRACEトレーニングで取り上げられました。
物事を見る時の、バイアス・偏見を取り除くために必要な基本的な態度です。
真摯で謙虚であること。それが、物事をありのままに見るためには不可欠であるということ。

ヨーガ・スートラの第1章12節
ヨーガの目的の達成(チッタ・ヴリッティ・ニローダ)は、アビャーサ(繰り返しの実践)とヴァイラーギャ(依存しない態度・離欲)によってなされる。

これを腑に落ちた理解にするために、身体を使い、呼吸を意識的にコントロールすることで、無意識に反応している微細な身体と心の動き・変化に気づく。そして、感覚器官を意識的にコントロールする段階から、コントロールという意識が徐々に薄まっていき、内側のスペースに自然と入っていく。

私自身、しっかりと実践をしていきたいと強く感じました。
ヨーガもアーユルヴェーダも本来は、微細なものを感じ取る能力を取り戻していくための道具だと感じます。そのためには、自分自身が粗雑な動きをそぎ落とし静かな状態になること、そして自分が自ら作り上げたフィルターを取り除いていく必要があります。その上で観察する・・・。
時間も空間も、動きも、全て相対的なもので、それを作り上げているのは自分であるという感覚。

今回の奈良での経験は、これから自分がどのようにヨーガを伝えていったら良いのか、という自分の迷いに対する答えに繋がるように感じています。

5月3日からハタヨーガのクラスと講座を再開致します。
今、感じていること、今回肌で感じた学びを活かしたクラスが出来たらと願っています。