「井の中の蛙(かわず)大海を知らず。」
そんな言葉が頭に浮かんだ今朝。大海を知ったように感じたとしても、それは、より大きな視点から見れば、また別の囲われた枠の中で「知った」と思い込んでいるに過ぎないという事実。それは、決してガッカリすることではなく、その自分にとっての「井」をいかに広げて行くかでしかない・・・、そう感じました。
大海を知るとは、枠が完全になくなって、それそのものになるということでしょう・・・。
「身体」という枠をもつ私にとって、それを完全に離れることはとても難しいけれど、自分の今の枠を少し広げることは、私にも出来そうです。
限界を取り払う可能性を秘めているのが「ヒト」なのでしょう。それを言葉で完全に表現しようとしても言葉を使っている限りすでに限界があります。
だから、究極の真実とは、誰かが教えてくれることや話している言葉の中にはなく、(もちろん、その方向に導いてくれるものではあり得るけれど)、頭の中で考えて作り上げるものでもなく、自分で経験して気づくものなのですね。
ヨーガ・スートラをはじめ、沢山の悟った人達が語った言葉、古典書などで読むことは出来るけれど、それだけでは不完全で、それを腑に落ちた理解にしてくれる実践と気づきが必要。スワミジも、頭だけで理論的に考えても経験しなければ理解することは出来ない、とおっしゃっていました。
言葉と活動を一致させることの難しさをあらためて知りました。そして、それに反応する自分は、小さな「井」の中の「蛙(かわず)」という「自分」。
その「自分」の小さな価値観を持ち出して相手を見ているから、反応するのだと気づき、ハッとしました。相手の中では一致しているものを、相手を知らない私がどうのこうの言っても話がかみ合わないのは当たり前のことで、それ以上でも以下でもない。良いでも悪いでもなく、ただそうだという事実だけ・・・。
スワミジの教えが今朝、ほんの少し理解だけ経験的に理解出来て、自分の未熟さに気づき恥ずかしくなりました。でも、そうやって進んで行くのが人間として今ここにいる自分であり、それでいいのだと思う自分もいます。そして、どんなに素晴らしいことを教えてくれる「人」も、身体を有する人間。
スワミジは、「素晴らしい」人であるという考えはエゴであり、「普通である」ということが大切なのだとおっしゃいました。
そこには、表面的な言葉だけではないものが含まれていました。
ただし、アヒムサ(非暴力)は最も大切なこと。
アヒムサがなぜ「ヤマの母」と言われるのかも、以前より腑に落ちた気がします。
「目から鱗が落ちた」と感じても、剥いても剥いても次々と新しい層が出てくるタマネギのように、また近い将来「目から鱗が落ちた」と喜んで小躍りする「井の中の蛙」である私がいるのでしょう。
それはそれで愛しいと思えるだけ、以前よりは、リラックス出来るようになったのかも知れません。
井の中の蛙(かわず)大海を知らず、の後には続きがありました。
井の中の蛙(かわず)大海を知らず。ただ 空の青さの深さを知る。The frog in the well knows nothing of the great ocean, but he knows the depth of the blue sky.
「井」の中で活動するのが、今世の私のなすべきことだとしたら、その空の青さに気付ける心の余裕だけは忘れないようにしたいと思いました。
気づきを沢山いただいたスワミジとの5日間は、完全に終了。
次のなすべきことに向き合います。